(A)電機業界 (B)大学における(A)新製品開発、創造性開発、社内教育、問題解決 (B)ベンチャー創業についてお話できます

エキスパート

氏名:開示前


(1)企業:イー・アソシエイツ(株)取締役(IR業界第2位、資本金1億円、年商3.5億円)
(2)大学:日本大学大学院グローバル・ビジネス研究科ベンチャー・ビジネス・コース主任教授、金沢工業大学経営工学科教授、非常勤講師(フランス国立ポンゼショセ工科大学国際経営大学院、亜細亜大学・大学院、北陸先端科学技術大学院大学、筑波大学
(3)官庁:科学技術庁科学技術政策研究所客員研究員
(4)講演:国内で1,000回以上、海外で100回以上
(5)著者:50冊以上
(6)学会:22世紀学会理事長、日本開発工学会副会長、研究・技術計画学会理事
(7)社会活動:NPO法人ICP鎌倉地域振興協会理事長、e-世論協会理事、ミャンマージャパンセダ東京交流会理事、ふるさとテレビ顧問、産業技術活用センターメンタークラブメンター、科学技術振興機構コーディネータ、宇宙航空研究開発機構シニアコーディネータ

■その他
いつごろ、何年くらいご経験されましたか?: (A)1970~1990年 30年間 (B)2000~現在 16年間
どちらでご経験されましたか?: (A)三菱電機 (B)日本大学大学院
その時どのような立場や役割でしたか?: (A)研究主監 (B)主任教授
一番誇りに思う成果はなんでしたか?: (A)オーロラビジョンを開発し1台10億円で発売し、35年間に約2,000台販売した。
(B)日本大学大学院のMBAコースで350名の大学院生を指導し76名を社長にした。

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氏名:開示前


(1)原子力技術者の私が「サンシャイン計画」を立案しました。
私は京都大学理学部物理学科(原子核物理学専攻)を卒業し、原子力発電をやりたくて、三菱電機に入社し、原子炉学校に留学させて頂きました。わの資格で原子力機器工場も建設し管理者になりました。ところが原子力発電の経済性に疑問を持ちました。日本の原子力発電所はよく「トイレのないマンション」と揶揄されますが、廃棄燃料処理や廃炉処理をしなければ安いのは当然です。そこで私は新エネルギーの文献調査をしました。さらにアメリカ。ヨーロッパ、ブラジルなどへ数回技術調査に行きました。そこで得た見聞に私自身のアイデアも加えて三菱電機の中央研究所の研究会で発表しました。それを聞きに来られた本社の顧問が「今の話しを文章にして私に送って下さい」と言われました。そして送ったところはしばらくして「あれをサンシャイン計画にしておいたから」という連絡を頂きました。その顧問は通産省のOBでした。このサンシャイン計画は1974年から18年間に4,400億円の研究費を投ずる一大国家プロジェクトになりました。
私は政府の各種エネルギー関連会議のメンバーに加えて頂きました。また資源・エネルギー学会の創設メンバーにも加えて頂き,企画理事や編集理事をさせていただきました。
後に科学技術庁科学技術政策研究所の客員研究員も務めさせて頂きました。
(2)オーロラビジョンを開発しました。
私は三菱電機の原子力発電から足を洗って新製品開発企画部門に移りました。同期の同僚に比べて一周遅れのスタートなので、技術シーズ指向の新製品開発ではなく、「市場ニーズ指向の新製品開発」を推進しました。これは市場のニーズを見つけ、それを現有技術で解決する手法です。この手法ででオーロラビジョン(輸出名はダイヤモンドビジョン)を企画しました。これは野球場、競馬場、広告用などの大型ディスプレーです。縦8m、横10mのもので10億円もする高価な製品でしたが、1980年にアメリカのロサンゼルスのドジャーズ・スタジアムに1号機を納入して以来38年間に約2,000台売れました、東京都府中市の東京競馬場に納めた 11m×66mのものは32億円でした。これはギネスブックに載りました。アメリカの学会でこの手法を発表したところ、フィンランドのノキア、韓国のサムスン、大阪のパナソニックから社内研修を依頼されました。
(3)日本大学大学院ビジネススクールの主任教授に就任。
三菱電機を定年後、日本大学大学院グローバル・ビジネス研究科ベンチャー・ビジネス・コースの主任教授に就任しました。日本大学は日本最大の大学で卒業生の社長が3万人で日本一です。そこで私はこの大学院を「社長をつくる大学院」としようと考えました。それには入学試験の成績よりも、面接で起業を目指す意欲のある学生を選んで入学させました。このビジネススクールには5つのコースがあります。各コースの定員は春学期5名、秋学期5名でしたが、私は在学中に創業できるビジネスプランを書いた学生は”寿退学”をさせますから、と言って日本大学の総長から春学期10名、秋学期10名を入学させる許可を頂きました。2学年で40名ゼミ生には授業の他に毎週1時間の個別指導を行ないました。そのため私は朝9時30分から夜11時まで研究室にいました。土曜日には課外授業として「実践ベンチャー起業研究会」を開きました。これには1000万円の創業資金を懸けました。ベンチャー企業の社長、弁護士、公認会計士を講師に呼んで、専門知識も伝授しました。8月の夏休みに「シリコンバレー研修旅行」を実施しました。月~金の5日間に午前1社、午後2社の合計15社を訪問し、各社で100問質問し帰国後報告会を開くというハードスケジュールでした。その結果私が指導した350名の中から77名の社長が誕生しました。
(4)22世紀学会を創設し理事長に就任。
私は日本大学を定年後、1,000兆円の国債という借金を子や孫に残したのでは天国に行けないと思いました。そこで日本と世界の持続可能性の研究をすべく22世紀学会を創設し、毎月研究会を開催しています。115回x2名の講師に22世紀まで生き残るアイデアを提案して頂きました。私も「 戦争なしに技術を進歩させる<世 界技術大賞(仮称)>の 提案(100兆円プロジェクト)」、「公平で脱税不能で低徴収費の「e税 (いいぜ― )」 制度の提案」、(夏は雲がない)「海に近い砂漠に雨を降らす方法」など画期的なアイデアを提案しています。
以上


職歴

情報総合研究所

  • 情報総合研究所・代表 2006/5 - 現在

情報総合研究所

  • 代表 2006/5 - 現在

イー・アソシエイツ株式会社

  • 取締役 2000/1 - 2014/6

日本大学大学院

  • 主任教授 1999/4 - 2010/3

金沢工業大学

  • 教授 1981/4 - 1999/3

三菱電機

  • 研究主監 1960/4 - 1991/3
  • 研究主監 1960/4 - 1983/6

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