モニュメンタル彫刻を(形体)を制作する事におけるより恒久的な形体とはどの様に作り出せば良いかについてお話できます
国(国の長)公官庁からの依頼に応じて制作している現場には専門家が何時も様子を見に来ます。そしてその作品の設置場所が決められ、その場所に此方のアイデアに従って設置します。後になってそのモニュメント作品の置かれた場所が旧市街でとても意味ある街であればユネスコから歴史遺産都市として、そのシンボルとして大切にアフターケアもされている事に気付く時の自信、程嬉しい反応は有りません。その内に日本の旅行代理店会社の代表達を招待して呼び付け、延々とそのモニュメント作品について説明がされている現状を何年か後にされている事を知った時には、「あああれで良かったのだ。」と胸を撫で下ろす自分がいる。この様な私の子供達の内、二つの国に勢い立っています。
■その他
どちらでご経験されましたか?: Artist
いつごろ、何年くらいご経験されましたか?: 1971年5月 〜 継続中
その時どのような立場や役割でしたか?: 東西ヨーロッパ各国・公官庁の依頼により、6体の5m級(30t~100t)のモニュメント作品を一任され制作設置してきた。制作に措いては、全て自分の希望は受け入れて戴いた。御影石・大理石・砂岩・溶岩等はこなして来ました。
得意な分野・領域はなんですか?: 美術の中に線と量の形が在りますが、より大きくエネルギッシュな形へ修正することが可能です。結果的にその形体はより恒久的な存在と成りえます。
この分野は今後どうなると思いますか?: 制作目標に向けて、身体を体当たりで期待以上の物を制作して来たが、汗水垂らして砂塵にまみれてする仕事は日本に措いて余り好まれなくなって来た為、世界の本物志向の世界から遠ざかる傾向にあり、大陸の人達の能力から少しずつ離れて行く傾向にあると思う。島国の内内に良ければ良しとされる傾向に向かって行くと考えられる。やはり幼年期の日本列島と大陸の老年期の人の思考の差は大きく隔たる物と危惧の念を抱きます。
誇りに思う成果はなんでしたか?: 日本では人気の出て来た作家に制作をお願いすれば誰にも後ろ指を指されることは無い傾向にありますが、大陸の人達は物を見る・鑑賞する洞察眼を持ち合わせている様に思われる。何故かと言えば此れを如何思うか尋ねた場合必ずその人の答えが返って来る大陸にて堂々と制作設置出来たこと。
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職歴
Artist
- 1971/5 - 現在
名古屋女子大学短期大学部
名古屋女子大学短期大学部生活学科&専攻科に勤務していました
- 生活学科長兼専攻科長 1974/4 - 2013/3
このエキスパートのトピック
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県民大学(有・単位)「美学・芸術学」における恒久的に美しさを放っている街と記念モニュメントについてお話できます
¥30,000~最初はハンガリー文化教育省から「ハンガリー国際石彫シンポジウム」参加依頼にて同国とユーゴスラビアとの国境近くの国道沿いに日本代表として{人と月と舟と}制作。ポルトガル産業振興庁からマイストロ級で国際石彫シンポジウム参加依頼にてエヴォラのパンテオン前庭、街を見下ろす場所にピンクの大理石にて制作設置。フランスはぺロスギュレック市長からの依頼にて高層住宅内公園に5m余りの記念彫刻設置。コートダムールにも設置。リトアニア独立直後国立芸術学院の客員教授として赴任していた折、最高会議議長ランズベルギス氏から直接の依頼を受けユダヤ人博物館グリーンハウス前庭全部使っても良いからと杉原千畝に敬意を払ったモニュメントを制作して欲しい。との事で「月の光よ永遠に」をノアの方舟が月の灯りだけを頼りに航行した事を重ねて現した作品です。台座はピラミッドと同じ様に、石畳の石を51.8度の四角錐に積み上げた。10年後「ユーラシア大陸の共生と協和」制作設置した。
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ポルトガル・フランス(パリ・ブルターニュ)・リトアニア・ハンガリーにおけるモニュメント彫刻の制作設置の考え方・手段と方法についてお話できます
¥30,000~個人から国・公官庁・企業からの依頼に基づいてモニュメント・彫刻の制作から設置までこなして来ましたから、立体的なものに関しては殆ど何にでも応用が利くものと思います。広い海岸から個人宅の坪庭まで空間は問いません。
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導入すべき形あるもの(製品・商品)の選択における世界の美術デザインの良し悪しの判別についてお話できます
¥30,000~大学卒業後PARISに留学していてヨーロッパ各地で制作をユダヤ人彫刻家と共にしてきた折、関係を持つ人がふえた)日本の彫刻家として国の代表的作者として選ばれ依頼が来ます。(勿論日本からは一人のみです)依頼はそんなに数は無いが確実に最初から最後まで私一人の考えと感性によって決めて着ました。例えば1992年リトアニア独立直後には国立芸術芸術学院へ客員教授として招かれ、指導の傍らリトアニア最高会議議長から直接「リトアニアの人びとが大変お世話になった日本人が居ます。杉原千畝さん(元:領事)への思いを形にしてモニュメントを制作してくれないか?ユダヤ人博物館前の庭が空いているから貴方の考えでデザインもしてモニュメントを置いて欲しい。」と言われ、その場で承諾し、完成させて帰国した。ポルトガルでは産業振興庁からでした。